2014年6月28日土曜日

第26回歌の祭典(歴史)


エストニアの歴史は様々な権力に翻弄された苦難の歴史と言っても過言ではありません。エストニア人は歌を通して心を一つにし、つながり、そして最後には歌を通して独立を回復しました。映画「歌う革命(The Singing Revolution)」は、そんなエストニアが独立回復を果たすまでのドキュメンタリー映画です。歌の祭典に参加する前にぜひご覧ください。

さて、歌の祭典とエストニアにおける合唱の歴史ですが、エストニアでは19世紀の中頃から様々な合唱団や合唱会のようなものが広まりはじめました。元々はドイツ人貴族たちから広まったもののようです。1869年6月、Johann Voldemar Jannsen (1819-1890)が最初の合唱祭をタルトゥで開催します。この時集まったのは、46の男声合唱団、822人の合唱団員、5つのブラスバンドと56人の音楽家たちと言われています。 当時はまだ、エストニアはロシア帝国の支配下にあったので、ロシア帝国旗が飾られたとのこと。この頃から参加者は民族衣装で参加していました。第1回目で歌われたのは、ほとんどがドイツの音楽でした。エストニア語の歌は、Aleksander Kunileidの「我が祖国、わが愛」と昔のエストニアの紙幣にもプリントされていた女流詩人、リディア・コイドゥラが作詞した「命ある限り」( Sind surmani )の2曲のみでした。そしてフィンランドのメロディーにJohann Voldemar Jannsenが作詞をつけた「我が祖国、我が喜び」が初めて紹介されました。これはその後すぐにエストニア全土に広がり、1920年には国歌となりますが、1944年ソ連邦下で歌うことが禁止されました。「命ある限り」は今年の祭典でも2日目に歌われます。
一方、歌の祭典は始めの3回は男声合唱のみでしたが、第4回目からは女性も加わり、1896年の第6回目からは場所がタリンに移りました。歌の祭典はロシア帝国下では、ロシアのツアーに捧げられながら、ソ連邦下ではスターリンに捧げらながらも継続されてきました。
1987年頃からデモでも自然発生的に愛国的エストニアの歌が歌われるようになり、1988年5月、タルトゥで行われたポップ音楽祭の際には、ソ連の監視の中、愛国的な歌が演目として歌われました。その年の7月には旧市街で開かれたフェスティバルの後、非公式に場所を歌の広場に移し、当時歌うことが禁止されていた愛国的な歌を歌いました。8月にはタリンからリトアニアの首都ヴィリニュスまで約600キロの「人間の鎖」が形成され、人々が手をつなぎ合って静かな抗議行動を行いました。その年の9月に行われた「エストニアの歌」というイベントには約30万人が参加し(人口の約4分の1!!)、皆で歌い、独立回復を主張。独立運動はその後ますます活発となり、1991年、ついに独立が回復されました。エストニア人を一つにした歌の力は本当に大きく、歌がエストニアの独立運動を盛り上げ、民族覚醒の一助となったことは歴史が示す間違いのない事実です。
歌の祭典は2003年にユネスコの無形文化遺産に登録されました。

すばらしいビデオができましたので是非ご覧ください。

Estonian Culture に掲載されたEvi Arujärv氏の論文及び映画「歌の革命」を参考に書きました。


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